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2016年10月報告

今月したことは、大別して2つに分けられる。1つはセミナーに出席することであり、もう1つは論文のプロポーザルを書くことである。

 前者についてまず述べる。派遣者は2つのセミナーに参加している。それぞれ、ジェレミー・エーデルマン教授とフィリップ・ペティット教授のそれである。前者は1850年以降の資本主義史をグローバル・ヒストリーの視角から検討するものである。後者のテーマは、規範、国家といった政治哲学の諸問題について概念分析を加えるものである。

 エーデルマン教授のセミナーは毎週600頁程度の課題文献が設定され、4人の報告者がチームを組んでプレゼンをする。プレゼンではディスカッションのたたき台となる論点を提示することが求められ、ディスカッションの盛り上がりはこのプレゼンにかかっていると言えよう。しかし、本セミナー以外にも膨大な課題量に忙殺されている大学院生に、十分にプレゼンを練る時間はないため、うまくいかないことのほうが多いという印象である(派遣者が報告したグループは、前日の夕方に集まってプレゼン内容について議論し、そこから一晩で作り上げた)。30分のプレゼンののち、1時間半ほど、20名のセミナーの参加者たちが縦横無尽に議論する。セミナーの時間帯は朝の9時から12時であるため、多くの参加者は寝不足である(と推察される)が、それにもかかわらずコーヒーを片手にスピーディな議論が展開される。

 セミナーの内容は、1850年代以降とされる(ユルゲン・コッカの資本主義に関する新著に依る)資本主義の歴史をクロノロジカルに辿っていくものであり、150年の時代をある特定の地域に偏らずにカヴァーする。その際に、経済史と関連ある範囲で、帝国史や文化史についても取り上げられる。例えば、19世紀資本主義の展開にとって主権国家や他のinstitutionはどの程度必要とされるか、といったテーマである。資本主義はどの程度のconvergenceがあったかと言えるか。それとの関連で、アジア間貿易をどのように理解すればよいのかが議論されたりした。また資本主義が扱う商品とは何であるかも議論の対象にならざるを得ない。商品を流通させる技術(鉄道、電信etc)とメンテナンスの問題や、また商品は文化の表象、価値の表象であるという前提の下、商品とは、商品流通プロセスを意味するのか、商品の論理は商品ごとにいかに違うのかといったことが議論された。更に、通信技術のもとにある自由貿易の具体的態様について、金本位制などと関連させて論じられることもあった。

 グローバル・ヒストリーの題目のため、留学生も参加しているが、とはいえやはり議論の中心は「欧米」にならざるを得ない。しかしそれは、例えば日本人が(一般的に言って)アジア史よりもラテンアメリカ史やアフリカ史に興味を持ちづらいのと同様、彼らにとってもアジア史は興味の対象になりづらいのであるから、致し方ないことなのかもしれない。更に言えば、アメリカの大学院でアメリカ人相手に「日本出羽守」になることは滑稽と言えなくもない。しかしその反面、グローバル・ヒストリーと銘打たれたセミナーにいる以上は、歴史を論じる主体と論じられる対象のそれぞれにおいて偏ってはならないと派遣者は考えるのであるから、やはり積極的に相対化していくことが求められているとも考える。例えば前述の金本位制についても、イギリス、アメリカを中心とするとこれらの問題が前景に浮かびあがるが、他方で銀を中心とし、またローカルな通貨制度が根強かった中国の経済制度を考えるとその限界が明らかになる、といった議論を提起することはその一例である。このバランスについて考えることは、自身のアイデンティティとも畢竟関わるため、学問的営みそのものが実存的な営みと切離し難くなる感覚に襲われる。

 ペティット教授のセミナーはそれよりも静態的である。こちらは15時半から18時半までの3時間。(事前に知り合いの先生に聞いていた話では、アメリカのセミナーは長くない代わりに濃密な議論が展開されると聞いていたのだが、プリンストンのセミナーは3時間ごとに時間割が設定される。)基本的には教授の作成したレジュメに沿って教授が説明を加えていき、質問ないし反論がある場合には挙手して発言するといったスタイルである。セミナーと言いつつ、半ば講義のスタイルも合わせ持っているという感じであろうか。こちらも参加人数は20人近くである。内容については来月にまとめて記すこととする。

 また、派遣者は10月の1か月をかけて、letterサイズ5枚ほどの論文のプロポーザルを書き、指導教員キャナダイン教授に提出の上、面談をした。具体的内容については詳述を避けるが、テーマの根底となる問題意識(自分で自覚しうる限りにおいて)は、第一次ブリテン帝国における東インド会社をめぐる統治において、オリエタンリズムとオーナメンタリズムのどちらの論理がより支配的であったかという類いのことである。これにつき、バークのヘイステイングズ弾劾の意義について議論したりしつつ、今後の計画やトピックのしぼり方についてアドバイスを頂いた。来月は1次史料を細かく読み解きながら、この問題を更に検討していく予定である。

 なお、プロポーザルの執筆にあたって、ライティングセンターに2回通った。最高で1週間に1回80分、大学院生にライティングの相談ができるこの施設は、ノンネイティヴにとっては英作文の添削のためだけでも有用であるし、アカデミックライティングについて訓練する格好の場になる。派遣者のメンターは中世史の院生であるため、単にライティングのみならず、アイディアの出し方やはてはテーマ選定の「現代的意義」をめぐって話し合うことができ、非常に役立った(次年度以降の派遣者にもぜひこの制度を活用することをお薦めする)。中世史の院生と話し合ったために特にそう感じるのだとは思うが、所謂「人文学の危機」のような問題はプリンストンにおいても感じられているように思われる(やや位相はずれるが、経済学における経済史のプレゼンスの低下についてエーデルマン教授は懸念しているようである)。


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