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2017年11月報告

 11月に入って以降、ベルリンは本格的に冬を迎えつつある。ベルリンの冬は、率直に言って厳しい。とは言っても、この世界どこに行っても室内はきちんと暖房がきいている(しかも、日本のようなエアコンではなくガスヒーターが主流なので、空気が異常に乾燥するようなこともなく快適である)し、暖かい上着を着ていれば外でも凍えるほどではない(今年の2月に調査で行ったミネソタは、日によっては「華氏マイナス」(=-20℃くらい)というありえない寒さだったので、それと比べればたいしたことはない)し、そもそも私は日本でも「その格好で寒くない?」とよく聞かれるくらい寒さに鈍感なので、寒い分には何の不都合もない。それではベルリンの冬の何が厳しいかというと、日照時間の短さである。何しろ、日の出が朝8時で、お昼を過ぎるとすぐに日が傾き始めたかと思ったら、15時過ぎには薄暗くなり始め、16時に日の入り、17時前には完全に真っ暗という状態である。渡航前から話には聞いていたが、「日が短い」というのが毎日続くだけでこれだけ心身に堪えるのかというのは、経験してみるまで想像もしていなかった。単純に一日が短く感じるというだけでなく、なんとなく暗澹とした雰囲気が、自分だけでなく街全体を基調付けているようにさえ思えてくる。この陰鬱な気分は日照不足に起因するビタミンD不足が原因だということで、サプリメントを服用する人もいるそうだ。「ベルリンに一学期間留学するのであれば、絶対に夏学期がいい」と言っている人がいたが、全く同感である。とりわけ、元々日の出とともに起床し、日没頃に家に帰ってご飯を食べてお風呂に入る、というような規則正しい生活を送ってきたような人であればあるほど、ベルリンの冬は堪えるように思う。とはいえ、今のところは研究と生活の充実が冬の暗さを上回っているので、何とか楽しく過ごせている。

 研究上の報告をしよう。11月21日に、このベルリン自由大学滞在中の最も重要なイベントとも言えるコロキアムでの発表を行った。今月の研究活動の大部分は、この発表の準備に費やされたと言ってよい。GHCの代表のSebastian Conrad先生と、受け入れ教員であるStefan Rinke先生との間の合意により、私はベルリン自由大学ラテンアメリカ研究所(Lateinamerika-Institut)で毎週開かれているラテンアメリカ史のコロキアム(Forschungskolloquium zur Geschichte Lateinamerikas)にて研究発表を行った。

 今回の発表では、「Deporte y estado en el Uruguay batllista: una historia política en perspectiva nacional-global (1911-1933)」(『バジェ期ウルグアイにおけるスポーツと国家:ナショナル‐グローバルな視点からの政治史(1911-1933)』)と題し、私の博士論文プロジェクトの全体像を話した。ブラジルとアルゼンチンという二大国に挟まれた小国ウルグアイは、1910年代に優れて先進的なスポーツ振興政策を実施し、これは1920年代以降他の南米諸国にとってひとつの目指すべき「モデル」として称揚され、模倣されさえした。この20世紀初頭ウルグアイのスポーツ政策について、同時代の急進的政治改革とそれをめぐる政治的趨勢というナショナルな文脈の中で検討する第一部、北米YMCAと国際オリンピック委員会(IOC)という二つの国際的機関が進めた世界の周縁地域におけるスポーツ振興策との相互関係の中で検討する第二部、という形で、私の博士論文構想は大きく二部に分かれている。つまり、「20世紀初頭ウルグアイのスポーツ政策」というひとつの事象を、ナショナルとグローバルという二つのレンズを使って見てみようというのが基本的な構想である。

 発表の内容についてはこれくらいにしておくとして、発表後の所感をいくつか書き記しておく。ウルグアイのようなマイナー国を研究する上での宿命とも言えるのだが、(ウルグアイで話をする場合を除いて)基本的に聴衆はウルグアイの歴史についてほとんどなにも知らないという前提で発表を作らなければいけない。今回の発表の聴衆は多くがラテンアメリカの歴史を専門とする教員や院生で、Rinke先生によれば「4大陸17カ国の出身者」からなる非常に国際色豊かなグループであったが、それでもウルグアイ人もウルグアイの専門家も一人もいない。こういう場合にいつも困るのが、ごく基本的な歴史的ファクトの説明と研究史のレビューをやってからでないと、自分がやっている研究の内容と意義を十分に理解してもらえないということである。まして私の場合には、研究対象の国だけでなくトピックも全くコンベンショナルなものではないので、なおさら難しい。今回のコロキアムでは、発表45分+ディスカッション45分というフォーマットだった(ただし、普段45分フルに話す人はほとんどいない)ので、ごく簡単なウルグアイの歴史の概説と研究史のまとめに15分くらいかけた後で、自分の研究について話をしたが、それでも時間をオーバーしてしまった上、第二部に関してはかなり端折らなければいけなかった。正直、あと30分でもあれば自分の研究の面白さをもっといくらでも開陳してやったのに、という悔しさはある。この悔しさは博論の執筆にぶつけるしかないだろう。

 とはいえ、普段日本の学会や研究会などで自分の研究について話をしても、「へえー、そうなんですかー。すごいですねー。初めて知りましたー。」というような反応を受けるのに終始することが多い私にとっては、50分ぐらいこんなマニアックな話題について私がひとりでべらべらと喋り続けたにも関わらず、30人近くいたオーディエンスが皆集中を切らすこともなく真剣に聞いてくれて、その後いろんな角度から質問やコメントをしてくれたのは、それだけでも驚きを通り越してもはや感動的ですらあった。

 なによりも嬉しかったのは、コロキアムが終わった後で、「今日の発表面白かったよ」と声をかけてくれた人が何人もいたことである。こういう言葉をもらえただけでも、自分がやっている研究が間違ってないと改めて自信を持つことができたし、またこの街、この大学に留学して本当に価値のある時間を過ごしているのだと感じた。

 もうひとつある友人から言われたのは、「もう博論ほとんどできてるじゃん、早く書けよ」ということであった。私にとっては、まだ二次文献の渉猟も十分でないし、手元にある一次資料の読み込みも足りないし、もう少し理論的な枠組み(特にラテンアメリカの歴史学の業界ではこれに妙にこだわる人が多いという印象を持っている。あるいは私の周辺の人たちがこだわらなさすぎるのかもしれない)もあったほうがいいのかな、などと考えては「まだまだ先は長いなあ」といつもため息をついているのだが、もうこれ以上資料を探しにウルグアイに行ける経済的見込みは今のところないし、また一生博論を書いているわけにもいかないので、どこかで踏ん切りをつけて「できたとこまで」で書くしかないのだろうと思っている。

 コロキアムでの発表の後には、受け入れ教官のRinke先生に夕食に招待していただき、おいしいドイツ料理(ベルリンはあまりに国際的な都市なので、恥ずかしながらまともな「ドイツ料理」をちゃんとしたレストランで食べる機会はこれまでなかった!)に舌鼓を打ちながら、2時間ほどゆっくり話をすることができた。日本では(少なくとも私の周りでは)教員と学生が授業やゼミの後に一緒にご飯を食べたり飲みに行ったりするのは普通、というかほとんど当然のことだと思うが、こちらでは一般的に必ずしもそうではない(所帯持ちの先生は家で夕食を食べなければいけないからなのか、あるいは単に学生とは一線を引いて付き合うべきだという考えだからかは分からないが)ようなので、これも大変感謝している。

 コロキアムでの発表の後、発表準備で溜まった疲れがどっと出たのか、あるいは単に学食で食べた安くてまずいイカリングに当たったのか、こちらに来て初めて寝込まなければいけないくらいまで体調を崩してしまった。ドイツでは日本と違って、原則としてそれぞれが「家庭医Hausarzt」というかかりつけ医を持っていて、何かしら病院にかかる場合にはまず自分のかかりつけ医に相談し、その診断の上で必要があれば整形外科とか耳鼻科とかの専門医に紹介してもらう、というシステムになっている。私はこのかかりつけ医というのを当然持たないので、それを探すところからやろうとしたのだが、知人から「それくらいじゃあ医者は診てくれないよ」と言われたので、結局病院には行かなかった。曰く、多少の風邪のような人体の生体反応で自然に治るレベルのものは病気の内に入らないそうである。たとえ40度熱が出ようが、「体がウイルスと闘っている証拠だから何の心配もない」というのがドイツの考え方らしい。そういうわけで、数日間水分だけをとってひたすら家のベッドの上で休んでいたら、いつの間にかいろんな仕事が山積していて、今あたふたしているところである。


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