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2018幎3月報告

早いもので、3ヶ月ず少しにわたるベルリン滞圚もあっずいう間に終わりを迎えおしたった。3月は倧孊の授業や、グロヌバル・ヒストリヌ・センタヌ以䞋、GHCず略蚘のコロキアムなどもなかったため、自身の研究を進めたり、GHCの孊生ずランチにいったり、あるいは、さたざたな図曞通・博物通などを蚪問しお過ごした。

 束尟氏の2月報告で、ベルリンには数倚くの魅力的な博物通があるず玹介されおいたが、今回の私のレポヌトでも、ベルリンの博物通に぀いお玹介したい。たず、フンボルト・フォヌラムHumboldt Forumに぀いお。これは珟圚、ベルリンの博物通島Museum Islandに建蚭䞭のベルリン王宮の総称である。ベルリン王宮は、15䞖玀に぀くられたが、東ドむツ共産党䜓制䞋の1950幎代に砎壊されおしたったため、それを埩元し、文化耇合斜蚭ずしお2019幎にオヌプンする予定である。ベルリン・フォヌラムの隣の堎所にはフンボルト・ボックスずいう斜蚭が建おられおおり、そこで王宮の歎史や埩元蚈画などを蚘した説明や䌁画展をみるこずができる。それほど倧きくないスペヌスに、倚くのボランティアが、その埩元の意矩を説明しおいたのが印象的であった。

 ここを蚪問しようず思ったのは、Sebastian Conrad教授による“Approaches to Global History”のクラスで、フンボルト・フォヌラムが蚀及されたからであった。授業では、“Is Berlin's Humboldt Forum shying away from colonial history?” (Deutesche Welle, 14 August 2017) ずいう蚘事がアサむンメントの1぀ずしお課され、その蚘事ではフンボルト・フォヌラムが痛烈に批刀されおいた。批刀のポむントの1぀に、他の博物通プロゞェクトず同様に倚くの建蚭コストがかかるこずがあげられおいたが、より問題芖されおいたのが、同通のコレクションがドむツ怍民地䞋のアフリカから䞍法に獲埗されたずいう点である。すなわち、1884幎から1914幎にかけお、ドむツが進めた怍民地䞻矩に察しお、同通は十分に泚意を払っおいないず蚀うのである。たずえば、プロむセン文化遺産財団Prussia Cultural Heritage Foundationは、ベルリン内の博物通を監督する立堎にあるにもかかわらず、フンボルト・フォヌラムをはじめずする博物通に所蔵されおいるコレクションが、どのような経緯で獲埗されたかに぀いお詳しく調査しおおらず、その皮の調査にかかる費甚を十分に蚈䞊しおいない。Conrad教授は、日本史、グロヌバル・ヒストリヌだけでなく、ポストコロニアル理論も専門ずするため、授業では、フンボルト・フォヌラムをめぐる政治性に぀いお議論された。

 フンボルト・フォヌラムをはじめ、ベルリンにはその他にも倚くの博物通が存圚する。私の専門ずする医孊史に関しお蚀えば、ベルリン・シャリテ医孊史博物通Berliner Medizinhistorisches Museum der Charitéは必芋であろう。同通は、ペヌロッパでも最倧芏暡の病院である、シャリテ病院内に䜍眮する。シャリテ病院は1710幎に蚭立され、数倚くの偉倧な医孊者を生み出し、医孊の発展に貢献しおきた。垞蚭展では、医孊の発展に関する歎史が、倚様な解剖孊・病理孊暙本を䜿っお説明されおいる。さらに、シャリテ病院の歎史に関する説明もある。

 たた別の医孊史関係の博物通ずしお、ベルリン・フンボルト倧孊森鷗倖蚘念通Mori-Ôgai-GedenkstÀtteがあげられる。森鎎倖は1884幎にドむツにやっお来お、ラむプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘンなどに留孊し、医孊を孊んだ。蚘念通は、圌がドむツにやっお来おから、100呚幎を蚘念しお぀くられたもので、か぀お森鎎倖が䞋宿しおいた堎所に぀くられおいた。その展瀺は森鎎倖のドむツ時代に関するものが䞻であるが、留孊生ずしおの様子だけでなく、圌の人生を通じた倚才ぶりも説明されおいる。展瀺スペヌスは数郚屋ずそれほど倧きくはないものの、廊䞋の壁にも展瀺がおこなわれるなど、その限られたスペヌスをうたく掻甚しおいる点が印象的であった。展瀺はすべお日独蚀語で䜵蚘されおおり、たた、森鎎倖や近代文孊に関する図曞宀もある。最近、新しく改装オヌプンされたようで、非垞に充実した展瀺内容であり、ベルリンに来た際には是非ずも蚪問をおすすめしたい。

 さお、研究滞圚を終えおの率盎な感想は、もっず長くいたかったずいう䞀蚀に尜きる本来は、もう少し早くドむツに来る぀もりであったが、前所属ずの契玄の関係䞊、来るのが遅くなっおしたった。しかし、この短い期間であるにもかかわらず、新たなこずを倚く勉匷するこずができたのは、ずおも良い経隓ずなった。受講した倧孊院の授業では、英語を母囜語ずしない孊生がほずんどでありながら、英語で掻発な議論がおこなわれおいたのはずおも刺激的であった。たた、孊生が関心をも぀トピックずいうのが、日本やアメリカの倧孊院生ず異なっおいるずいうのも印象的であった。さらに、GHCに所属しおいた教員・研究員・孊生などは非垞に倚いずいうこずにも驚かされた。GHCのコロキアムには、毎週、䞖界䞭から第䞀線の研究者がやっお来お、講挔をしおいた。日本ではそのような機䌚はなかなか埗る事ができないので、非垞に貎重な経隓であった。逆に蚀えば、GHCの研究者は非垞に倚く、人の出入りも激しかったため、他の研究者ずじっくりず話す機䌚を埗るこずが出来なかったのはやや残念でもあった。ずくに、倧孊院に入孊したばかりの孊生ずは亀流をも぀こずができたものの、珟圚、博士論文を執筆しおいる孊生たちずは知り合う機䌚が少なかったのは心残りではあった。

 最埌ずなりたすが、この堎を借りお、今回の滞圚を支揎いただいたGlobal History Collaborative、および、滞圚を受け入れおいただいたベルリン自由倧孊ずSebastian Conrad教授に感謝申し䞊げたす。


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