2018年2月報告
ベルリンは雪がたくさん降り、かなり寒くなると周りから言われていたので、渡航前は冬をしのげるかどうか心配していた。しかしながら、今年はかなりの暖冬であったようで、雪が降ることが何度かあったが、積もることは結局なかった。気温も、寒くなってもマイナス一桁程度であり、建物の中は暖房がしっかりと効いているので、問題なく過ごすことができた。ただ、地元の人が言うには、2月がそれほど寒くなかった場合、3月、4月と急激に寒くなる可能性もあるらしいので、用心はしなくてはならない。
さて、2回目となる今回の報告では、ベルリン自由大学で受講したコロキアムやセミナーについて紹介したい。私が所属するグローバル・ヒストリー・センター(以下、GHC)では、毎週コロキアムが開催されていた。ドイツ国内のみならず、海外から研究者が招聘され、45分の講演および45分のディスカッションがおこなわれた。秋学期は、カリフォルニア大学バークレー校、インディアナ大学、東京大学、ニューヨーク州立大学バッファロー校、イェール大学、ハンブルク社会研究所、ベルリン自由大学、ニューヨーク大学、イェナ大学などの研究者が報告をおこなった。コロキアムには、GHCの教員やフェロー、大学院生などが毎回30〜40人ほど参加していた。
コロキアムの内容は毎回多様であり、とても刺激的なものであった。以下では興味深かった講演を1つ紹介したい。それは、イェナ大学近代史学部のCarola Dietze教授による、”The Emergence of Terrorism in the 19th Century in Europe, Russia and the United States”と題された報告である。Dietzeは、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件のニュースに接し、ドイツのメディアや批評家がその事件の「新奇性」を喧しく言うことに、歴史家として疑問を持っていた。そこでDietzeは、テロリズムの歴史が研究者によってどのように語られてきたかを調査し、氏が冷戦史観と呼ぶ、支配的な見方があることを指摘する。冷戦史観では、テロリズムの歴史は以下の3段階に区分され、論じられてきた。第一に、宗教を理由としたテロリズムの時代であり、これはフランス革命まで続いた。第二は、政治的理由によるテロリズムであり、その代表として1870年代のアナーキスト・インターナショナルがあげられる。第三が、ポストモダンにおいて再びテロリズムのあり方が宗教的理由へと回帰していった時代であり、具体例としてアルカイダやオウム真理教などがあげられる。
それに対しDietzeは、社会学者Peter Waldmann(アウグスブルク大学名誉教授)の議論を援用し、これまでと異なるテロリズムの歴史の見方を提示しようとする。Waldmann によれば、テロリズムは政治的秩序に対する下からの暴力であり、それは恐怖を生み出す一方で、共感・支援も生み出すことが特徴である。そこでDietzeは、人々がメディアを通じて自らの暴力的行為を拡散し、他の人々からの共感・支援を得ようと試みたのがいつであったかを検討する。このとき、彼女がその先駆としてあげるのが、オルシーニ(Felice Orsini)とブラウン(John Brown)である。前者は、イタリアの国家としての団結を人々に喚起するため、1858年1月4日にナポレオン3世の暗殺を企図した。後者は、奴隷解放に人生を捧げた人物であり、1859年10月16日にHampers Ferryの襲撃をおこなった。その2人の「テロリスト」は、世界中のメディアで取り上げられ、プロシア、ロシア、アメリカなどでその模倣者があらわれた。そういったテロリズムは、国家団結や解放などといったスローガンを共有しながら、世界各地で同時に発生したのであった。
次に、ベルリン自由大学で受講した”Approaches to Global History”という授業について紹介したい。担当は、私のこちらでの受け入れ教員でもあるSebastian Conrad教授であった。この授業はグローバル・ヒストリーの入門コースとして位置づけられており、メインの受講生はGHCの修士課程の学生、とくに新入学生であった。受講生は20人ほどで、半分以上がドイツ出身であり、それ以外が北米・ヨーロッパ出身であり、アジア、アフリカ、ラテンアメリカからの出身者はいなかったようだ。
この授業が水曜日に開講されていたこともあり、授業のはじまりではしばしば、月曜日におこなわれたGHCコロキアムのディスカッションの「延長戦」がおこなわれた。その後、事前に読んできたアサインメント(大体が、ヨーロッパの研究者が著した英語論文2本)に即し、ディスカッションが進められる。ディスカッションは、受講者のコメント・感想にConrad教授が反応する形、あるいはその反対に、Conrad教授が受講者にアサインメントのポイントを質問する形で進められた。また、受講生が少人数に分かれ、それぞれのグループでディスカッションがおこなわれることもあった。
ある週は、Conrad教授自身の論文Sebastian Conrad, “Enlightenment in Global History: A Historiographical Critique,” The American Historical Review, 117(4), 2012, pp.999–1027(リンク先より全文閲覧可)がアサインメントとして課された。同論文でもやはり、氏のねらいは西洋中心主義的な見方を相対化することであった。具体的には、ヨーロッパのある地域で生まれたEnlightenmentという概念が、世界各地で循環していき、その概念が各地域によって様々な含意をもつようになったことを描こうとしている。それにより、その概念が単純に西洋から非西洋世界に拡散していったという、旧来の歴史叙述を批判しようとした。
また別の週では、受講生が中心となって授業のテーマが設定され、ディスカッションがなされた。このときに興味深かったのが、ほぼすべての受講生が、ジェンダーを主題とする文献を読みたいと強く希望していた点である。実際、本授業では、様々な主題を扱っていたにもかかわらず、ジェンダーとグローバル・ヒストリー関する主題は授業で取り上げられていなかった。このときのアサインメントは、Conrad教授ではなく、受講生が主体となって決め、選ばれたのがGiulia Calvi, “Global Trends: Gender Studies in Europe and the US,” European History Quarterly, 40(4), 2010, pp. 641–655、および、Anne McClintock, Imperial Leather: Race, Gender, and Sexuality in the Colonial Contest (New York: Routledge, 1995) であった。
初期近代イタリア史研究で知られるGiulia Calvi(欧州大学院教授)の論文は、ヨーロッパの研究者が、北米を中心としたジェンダー研究の動向を、自らの研究分野にいかに反映できるかを問いかけるものであった。実際、Calvi自身は、ヨーロッパの研究者、とくに初期近代西洋史の研究者の間で、ジェンダーとグローバル・ヒストリーという視点が弱いことを反省的に捉えている。ただしCalviは、対象とする地域・時代などによっては、グローバル・ヒストリー的な視点を取り入れることが難しい場合があることも認めている。本論文の議論を受けたディスカッションでは、グローバル・ヒストリーを単独でおこなうことの難しさ、そして、それゆえ、個人ではなく共同プロジェクトとして研究を進めていく可能性が指摘された。たとえば、The Modern Girl around the World Research Group, ed., The Modern Girl Around the World: Consumption, Modernity, and Globalization (Durham, NC: Duke University Press, 2008) という論文集はその良い事例である。同書では、15人の著者が、ドイツ、オーストラリア、中国、日本、フランス、インド、アメリカ、南アフリカ、ジンバブエなどの事例について分析している。
一方、Anne McClintock(プリンストン大学教授)の著作は、ポストコロニアル理論の観点からおこなわれた、南アフリカの社会史研究である。氏はもともと、歴史研究者としてだけでなく、ノンフィクション作家、写真家としても知られ、人種、ジェンダー、セクシュアリティなどを主題として領域横断的な研究をおこなってきた人物である。ディスカッションでは、ポストコロニアル理論とグローバル・ヒストリー研究との違いについて議論された。前者が、植民者・被植民者の間の権力・ヒエラルヒーなどの構造を分析し、その批判をおこなうことを目指すのに対し、後者では、そういった視点が必ずしも共有されているわけではない。そのため、グローバル・ヒストリー研究者は、グローバリゼーションという概念を使用するときに、それに関わる国や地域の間の権力構造を見落とさないように注意しなければならないということが確認された。
GHCにおいて、コロキアムやセミナーを受講していて印象的であったのが、Conrad教授がセミナー受講生やコロキアム参加者に対し、西洋中心主義史観の相対化の必要性を繰り返し訴えていた点である。氏は、日本研究をおこなってきたというバックグラウンドもあり、グローバル・ヒストリー、ひいてはドイツの歴史研究において、西洋中心史観があまりにも強すぎること(実際、先にあげたDietzeのコロキアムの報告では、検討された事例は西欧・アメリカ・ロシアに限定されていたにもかかわらず、テロリズムが「世界中」で同時期に発生したと結論づけられていた)に長年の疑問を抱いており、それを変えるため地道に主張を続けているのであった。