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2017幎2月報告

2月は新しいセメスタヌがはじたった。私はキャナダむンコリヌ䞡教授の「ブリテン史ずグロヌバル・ヒストリヌ」ずいうセミナヌに参加し、君䞻政の歎史に関するキャナダむン教授の孊郚の授業を聎講したプリセプト――授業の前に少人数で行われるセミナヌのようなもの――には参加しおいない。

 セミナヌは、1750幎から1950幎たでのブリテン史を、グロヌバル・ヒストリヌの芋地を取り入れながら考えるもので、実に有益である。院生の参加者は私含めお8名、朚曜の午埌に3時間行われる。毎週500頁ほどの研究文献を読んで、氎曜倜にコメントを提出する。それずは別に、毎週院生のうち䞀人が、課題文献ず関連した䞀次文献に぀いお報告する、ずいうスタむルである。私はメアリ・りルストンクラフトの『女性の暩利の擁護』を䞀冊読んで報告した。毎週、啓蒙、産業革呜、フランス革呜、ロンドンずいったキヌワヌドを軞に議論がすすむ。たずえばポヌタヌ、ポメランツ、フィルプずいった研究曞の、これらのキヌワヌドに぀いおの定矩ず解釈枠組みず分析察象ずなる資料の扱い方がどのように適切か、あるいはそうではないかずいった点が話し合われる。たたセミナヌの2回目で玹介されたコンラッドの2012幎の論文「グロヌバル・ヒストリヌにおける啓蒙」から「䌝播モデル」「再構成モデル」ずいうグロヌバル・ヒストリヌの二぀の型が析出され、各々のどちらのモデルが歎史叙述の方法ずしお適切かも、意識されおいる。勿論ナヌロセントリックであるこずを忌避する思考からは埌者のほうが䞻匵されるわけであるが、そもそも䌝播されるこずなくしお再構成もなにもないのであるから、この䞡者を単玔に二分するこずも劥圓ではなく、慎重な思考が必芁であるず考えられる。

 議論に぀いおひず぀特城的であるず思われるのは、分析枠組みに぀いおの培底した自芚である。たずえば「革呜の時代」ずしお1770幎から1830幎を仮に捉えたずしお、その捉え方そのものが本圓に適切であるのか。他のタヌムずどのような関係にあるのか、などの疑問が提瀺される。こうした議論はしばしば空䞭戊になるきらいがあり、たた厳密な定矩を避けお「家族的類䌌性」ずいうタヌムの䞋に萜ち着かせるこずも倚いその方法的優劣は具䜓的な議論の堎でなくおは論じられないから、ここでは割愛する。ずはいえ、ただ史料読解に埋没するのみではなく、その史料が倧きなフレヌムワヌクにおいおどのような意味を有するのかを垞に問い続ける必芁があるのだ、ずいう教育であるず理解しおいる。

埌者のキャナダむン教授の授業は、䞀般にはデモクラシヌや共和政や革呜に焊点を眮かれるこずの倚い18䞖玀埌半以降、䞖界䞭になお君䞻政が倚く存圚しおいるこずを看過しおはならないずいう意図で、君䞻政の様々な態様に぀いお歎史的に怜蚎するものである。君䞻政ずデモクラシヌずいう問題系は、珟代日本においおもアクチュアルな問題ずしお存圚するため、これを歎史的に解明するこずは有益であるず考えおいる。

以䞊が今月の報告ずなるが、掟遣の最終月であるため、次幎床以降の掟遣者のために、幟぀かアドバむスずいうほどの倧局なものでも、偉そうなものでも、たしお有益なものでもないがを蚘しおおきたい。半幎前の自分に察しお䜕か蚀えるならば、以䞋のようこずをさしあたり蚀いたいず思っおいる。

ずにかくプリンストンでの生掻で重芁なのは、ここでの生掻ず仕事にアゞャストするこずである。これは経隓したこずのない人間が想像するよりはるかに困難なこずである。アメリカにアゞャストするために䞀番必芁なのは、よい意味で他人に無関心になり、たた他人が自分に無関心であるず気付くこずである。それは二぀のこずを意味する。

䞀぀は、他者の感情に察する掚枬を過床にしないずいうこずである。アメリカにいる人間が個人䞻矩的である、ずはよく蚀われるステレオタむプではあるこのステレオタむプが䞇人に劥圓するわけでは勿論ないが、それはひずえに、この囜――少なくずもプリンストン――に䜏んでいる人間のバックグラりンドが倚様であるがゆえに、他人に関心を持ずうにも持おないからではないか、ずの印象を受けた。コミュニケヌションの盞手が、自分の蚀動によっおいかなる反応をするかは、自分ず盞手ずがある共通のコヌドに則っおいなくおは、想定䞍胜である。勿論、およそ人間たる以䞊、common humanityずいうのは存圚する。しかしそれず同時に、自分が生たれ育っおきた環境の䞭で受容した、無意識のコミュニケヌションコヌドずいうものは存圚しおおり、それは珟にこの半幎間、いかに自分が東京のごく局所的なコミュニケヌションコヌドずいうものを無意識に前提ずしお生きおきたかずいう驚きず反省ず共に実感したものであった。それゆえ、人皮も階玚も信仰も異なるこの囜に䜏む人、この囜に他囜からやっおきた人、それぞれがそれぞれのコヌドを持っおいる英語の発音䞀぀ずっおもそれは明癜である。この倚様さは、党おのコミュケヌションコヌドに察し理解しようず努めるには、あたりにも倚様である。曎に、ポリティカル・コレクトネスの問題がこの無関心さを䞀局誘発する。盞手ず自分が共通のコミュケヌションコヌドに則っおいないずき、人は盞手に螏み蟌んで䜕か蚀うこずを避ける。それが盞手に察しおどのような粟神的苊痛を䞎えるかわからないからである。こちらがよかれず思っお蚀った発蚀が思いもよらぬ苊痛䟋えばある皮のスティグマを䞎える可胜性もある。埓っお、盞手がどう思うか、ずいうこずを䞁寧に考えるこずは、敢えお挑発的に断蚀すれば、党くの時間の無駄である。䜕故ならば、それがどういう意味を䌎っおいるのか盞手偎の立堎が分からないからである。これに察しお、「これだからアメリカ人は、自分勝手で、気遣いがない、云々」ず偏芋亀じりに文句を蚀うのは、正盎蚀えば䞍快に思うこずも倚々あるので、仕方のないこずである。しかし少なくずも私にずっおは、䟋えば私がこの囜に生たれたらどう振舞うか、ずいう想像をすれば、䞊蚘のようなこずは蚀えない、ず匷く感じる。仕方がない、ず肩をすくめるほかないのである。ここはアメリカなのだから。

他者ぞの無関心のもう䞀぀の偎面は、䜕か蚀うこずを臆しない、ずいうこずず関連する。アメリカ人ず英語で話すずいうこずは、おそらく倚くの日本人にずっお少なからぬストレスを䌎う。圧倒的なスピヌド、こちらの発音を理解しないこず倧孊内倖でのHa?!ずいう鋭く突き攟した聞き返しは、慣れるたで嚁圧的に感じた、沈黙を吊定的に捉える文化、そしおなによりも倖囜語を習埗する困難ず、倖囜語を話す際のストレスに察する無理解が䞀䜓ずなっお、私にストレスを䞎えるこれは圌らに察する怒りを意味するのではない。繰り返すが、これらは私がアメリカに生たれおいればおそらくずったであろう態床だから。私を含め倚くの日本人は、このストレスから自然ず無口に、そしお憂鬱になる。しかし、この壁を突砎する䞀぀の手がかりは、呚りの人間は他人に関心を持っおいないず気付くこずにある。日本の教育機関で英語教育を受けた人々で、真面目であればあるほど、现郚たで粟確な英語を話したいず欲するし、間違った英語を䜿うこずを厭う。だが、ある意味では、私の話し盞手にずっお私が文法を粟確に䜿っおいようが間違っおいようが、はっきり蚀っおどうでもいいこずなのである。そんなこずは発蚀の5分埌には忘れおいるず思う。5分埌に忘れられおいるこずを気にかけるほど銬鹿らしいこずはない。むしろ、自分の栞ずなる䞻匵だけを埌々たで聞き手に残すように話さなくおはならない。セミナヌの最䞭に、自分の発蚀が劥圓かどうか気にかけお、発蚀を臆する時もあるこれは日本のれミに぀いおも蚀えるこずではないかず思う。これも党くもっお無意味である。盞手は基本的に自分に関心を持っおないのだから、䜕蚀ったっお構わない、ず開き盎るこずが肝芁である。これはひどく自分勝手に聞こえるかもしれない。しかし、それくらい自分勝手になるこずを意識しないずいけないず考えおいる。倧事なのは、それくらい意識的に積極的にならないず、セミナヌで発蚀するこずは困難だ、ずいうこずである。


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